バスターミナルに近い店で、蒸しパンと豆乳で二元という朝食を食べながら、H君はこんなことをいうのだった。「昨日の夜、ずっとジャッキー・チェンのビデオがかかっていたでしょ。その声が『新婚さんいらっしゃい!』っていっているように聞こえてしかたなかったんです」ハチョーッ、ハチョーッという声のどこが『新婚さんいらっしゃい!』なのか、しばし悩んでしまった。「あまり寝れなかった?」「ほとんど」いろんなことが気になっているようだった。
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丹東で荷物をバスに預けるときも、前に中国で起きた事件をH君は僕に教えてくれた。なんでもトランクのなかに人が潜んでいて、走行中にほかの人の鞄から貴重品を盗むという手口だった。夜行バスに乗っていると、そんな不安が膨らんでしまうのかもしれなかったが、無理もなかった。僕もアジアを歩きはじめた頃、夜行バスではほとんど眠ることができなかった。どんな不安に苛まれていたのかいまとなっては覚えていないが、暗いバスのなかでまんじりともせずに座っていると、些細なことが心のなかで広がっていってしまう感覚はよくわかる。しかしそんな旅を何回もつづけ、実際に鞄ひとつ盗まれてしまった体験を経ていくうちに、鞄などなくても旅はできるという妙な落とし所に辿り着いてしまった。これが摩れた旅人というのかもしれないのだが。